Libertas quae sera tamen|かもかてSS

※前置きという名の言い訳※
試験的企画、として、筒安さんが熱烈に支援しているトッズ一心同体と向き合ってみたらどうなるかと思ったんです。
トッズルートの中でも大好物な友情ルートから愛情へ向かう流れは、どうやったら追えるのかなと。

基本的には、出来るだけ本編ルートを崩さないようにイベントを踏襲しようと試みたのですが、
流れの関係上、フラグであったり好感判定であったり、そういったものに捏造が入っています。
それ以外にも捏造が含まれています。
それでも大丈夫だよギチギチ(#´ω`)と許せる心の広い方向けの仕様となっておりますので、なにとぞ、なにとぞ。

◎前提条件
・トッズ:友情→愛情中
・レハト:友情→愛情中 未分化/一人称僕
レハト視点で、長いです。

「レハトってさ、商人向きだと思うわ」

いつも通り額に布を巻き付けて手伝いをする市場で、トッズが感慨深げに呟いた。

「ありがとう。王候補に向かって言う言葉じゃないよね」
「あれ、ヤだな。褒めてるんですよ」
「それはどうも」

話を打ち切り、店の前で足を止めた貴族らしき女性に目を向ける。
彼女が目を引かれたのは、小さな石飾りが散りばめられた首飾りのようだった。
僕はそれを手に取り、彼女の手に持たせる。
驚いたような顔をする彼女に、近くにあった鏡石を向かい合わせた。

「もう少し色が濃いものの方がお似合いになると思います」

鏡石の前で首飾りを首元に掲げた彼女は首を傾げる。
僕は隣に置いていた、いくらか大きな石が付いた首飾りを渡した。
少し派手だわ、と返そうとする手をやんわり握って僕は囁く。

「首飾りを変えたことが、これなら直ぐに気付いて頂けます」

一瞬ぽかんとした顔をした彼女の頬が、かすかに赤くなる。
口中で何やら呟いた後、すぐに値札通り、金の貨幣が僕の手に置かれた。

「……ほら、そういうトコが商人向きだっていうね」

足取り軽く城内に戻る彼女の後姿を見て、トッズが何度も頷く。
僕は少し笑いながら、彼の手に金貨を置いた。

この胡散臭い商人との取引を始めてから、そろそろ1ヶ月が過ぎようとしている。
妙な馴れ馴れしさも蓋を開けてしまえば何てことは無く、
彼は僕からの情報を、僕は彼からの情報を、互いにやり取りすることで協定を結んでいた。

「初めから、俺のこと信用なんてしてなかったでしょ」

互いの種明かしをした時に言われた言葉だ。
僕は頷き、彼に返した。

「初めから、僕のことも信用していなかったでしょう」


寵愛者と言うのは平たく言ってしまえば次期王のことで、それは二人目が現れたからと言って変わることでは無いらしい。
少なくとも野放しで田舎暮らしを続けるわけにはいかない僕の境遇では勉学や礼節、武芸から立ち居振る舞いに至るまで
細かな規則が伴う。

我侭を言えば、ある程度は通る立場に居るのだと言うことは、城で数日を過ごすうちに分かってきた。
けれどそれ以上に、成人をして尚役に立たぬ印持ちと知れたらどうなるのかと言うことも分かってきた。
今僕がある未分化という立場は、猶予期間なのだ。
そう理解をするまで時間はかからなかった。

この国の成り立ちや歴史は、昔話で聞いた英雄譚の域を越えなかった。
美しく物を食べることの重要さも、土豚が屠殺される様子を幾度と無く見てきた僕には何処か上滑りをして聞こえた。

血を抜く為に四肢に穴を穿たれた土豚が吊るされる。
血の溜まった樽が転がり、黒いインクのように板張りの床に沁みていく。
生臭い臭いが鼻を突いた。
やがて男達が小屋へ入り、土豚を吊るしていた縄をほどく。
どさりと落ちた塊は、

「……ト様、レハト様」

教師の声に我に返る。
持っていた羽筆からインクが落ち、紙に丸い染みを作っていた。

「今日はここまでになさいますか?」

僕は首を振り、教師へ謝罪を述べる。
教師は再び抑揚の無い声で修辞句の項を読み上げた。


晴れ上がった空に、回廊を忙しなく行き交う人々。
遠く覗いた中庭に幾つもの天幕が張られているのを見て、今日が市の日であったことを思い出した。
今日は顔を覚えた貴族とは違う面々が混ざっているようだ。
すれ違い様、彼らの視線が僕の額を撫ぜるのを感じた。

『あれが』

後ろで囁くように交わされた会話は、それ以上は聞き取れなかった。

どうやら今日の市には、見世物があるらしい。
トッズが指差した中庭の中央には、商人達の持ち寄るものよりも二周りは大きい天幕が張られている。
厚手の布が垂らされ、中を見ることは出来ない。

「漫談師とか、奇術師とか、そういう連中が来る日みたいよ」

さして興味もなさげな様子でトッズがいつも通り商品を並べる。
この日ばかりは貴族の子ども達も登城を許されるのだろう。
僕とヴァイル以外では聞くことが無かった未分化独特の甲高い声が混じった。

僕はトッズの隣に空いた場所へ腰を降ろし、並べられていく商品を見つめる。
相変わらず、一貫性の無い商品ばかりだ。
繊細な彫刻が施された小箱の隣には、皮の擦り切れた古書。
まるで子どもが描いたような絵は、途中で彫るのを諦めたのかとすら思える額縁に入れられている。
品揃えを見る僕に、トッズがばらばらと商品を寄越す。

「そっちの方に置いといてくれる?」

装飾品と思われる品物を、僕の前に空いていた場所へ並べていく。
並べては渡されるのを繰り返すうち、僕の手に巻物が渡された。

「あ、それは古地図ね。欲しがってたでしょ」

封をしていた紐を解くと、絵物語に使われるような地図が現れる。
北方には剣を掲げたアネキウスの姿が、海には長い尾の魔物が波の上に半身を出している。
壁を境にした反対側には雲が描かれ、その大陸の形すら朧気だ。
地図の隅に一緒に巻かれていた紙片を確認して、僕は再び地図を閉じた。

突然の歓声に、僕は顔を上げる。
どうやら中央の天幕が上がったようだ。
人だかりの向こうから、演者と思われる声がわずかに聞こえる。

「あー、始まっちゃった。こりゃ今日は商売上がったりだなー」

トッズは中央に顔を向けると、わずかに肩を落とした。
人々は殆どが中央の天幕に寄せられ、他の商人たちも同じように恨めしそうな顔をして見ている。

「渡すもん渡しちゃったし、ご覧の通りお客さんも来ないだろうし、レハトも見てきたら?」

トッズが天幕を指差す。
人々から上がる歓声は何らかの拍子に勢いを増しては直ぐに収まる繰り返しだ。
時折拍手が混じる向こう側では、今は奇術をしているのだろうか。
細く上る煙が橙から紫と鮮やかに色を変え、晴れた空に吸い込まれていった。
僕は人だかりから目を離し、その場に座り直した。

「あれ、興味無い?」
「無くは無いけど、」
「あーいうの、無邪気に喜べるの未分化の頃だけよ」

何とはなしに、目の前に置かれていた錫製の杯を手に取る。
見た目よりも重たいそれは、縁の石が嵌めこまれていた。

「そう、なのかな。ああいうの愉しめるのって、」

くすんだ杯が、ぼやけた僕の顔を映す。

「自分が見られることは無いって、そう信じてる人だけじゃないのかな」

頭に巻いた布が緩みかけ、僕は額を抑えた。
杯を置き、二重に巻いた布を結び直す。
横を見れば、トッズが何か言いたげな顔で僕を見ていた。

「なに?」

トッズは何も言わず、僕の頭を軽く何度か叩いた。


神官による暗誦が終わり、僕は聖書を閉じる。
見れば隣に居たはずのヴァイルの姿はもう無い。
遠くからヴァイルをたしなめる侍従の声が聞こえる。

ばらばらと席を立つ人が過ぎるのを待っている間に、声をかけられた。
初老の男は、何度か顔を合わせたことがある。

「神殿長」

立ち上がろうとする僕をやんわりと手で制し、穏やかに微笑んだ。

「主日礼拝ではよくお姿をお見かけ致しますが、お忙しくていらっしゃいますか」

彼の問いかけに、僕は曖昧な笑みを返した。
覚えるべきことは未だ山ほど積み上げられていて、それらをこなすだけで日々は過ぎてしまう。
しかし足が遠のく理由は、恐らくそれだけではなかった。
答えない僕に、神殿長が話を続ける。

「以前、レハト様に祈りとは何かと、お伺い致しましたね」

市場からの帰り道だったか、神殿に立ち寄った時の話だろう。
僕は頷き、交わした会話を思い出す。

「……誓い、と」

彼は満足気に頷いた。
神殿長の視線が僕の膝に置かれた聖書に向けられ、つられて僕も聖書に目を落とす。

「その誓いは、未だ貴方様のお心に在られますか」

やがて人の波が過ぎ、神殿に残されたのは僕と神殿長、そして何人かの神官だけになった。
神殿長を呼ばわる声に、彼は手を上げて応える。

「またいつでも、おいで下さい」

神殿長は一礼をすると、そのまま踵を返した。

神殿の外は、所々に立ってる神殿衛士の他には祈りに訪れる人の姿も既に無い。
石造りの低い階段は人々の足に削り取られ、足裏に柔らかくその形を知らせる。
何人もの人々が、この石段を上がっては下り、そうして祈りを捧げてきたのだろう。

僕は村にあった神殿を思い出す。
神官も二人だけしか居ない、小さなものだ。
王城の神殿と同じように天井に丸い穴があけられていたが、
そこから降り注ぐのは光や雨でなく、いつの間にかねぐらにしていた鳥達の柔らかい羽根だった。
主日礼拝は規則どおりに行なわれていたようだが、
神官達が借り出されるのは新しい畑の開墾時の祈祷であったり、
他所から届いた手紙の通訳であったり、
今思えば村の雑事を押し付けられていた部分もあったのかも知れない。

それでも母はよく礼拝に訪れていたようだった。
日の色が変わる頃にふらりと行っては、半刻もせずに帰ってきていた。
何を祈っているのかと問うと、お前はまだ祈るには早いからと僕の頭を撫でて笑った。

母は祈りに何を託していたのだろう。
願いだったのか、拠り所だったのか。
それとも僕と同じように、アネキウスに語りかけただろうか。
貴方を恨んでいる、と。

僕の手から聖書が滑り落ちる。
背から落ちた聖書が広げた頁には、両腕を広げたアネキウスの挿し絵が描かれていた。
僕は聖書を拾い上げて土を払うと、居室への回廊に足を向けた。


兼ねてから、リリアノには王位を継ぐ意思は曖昧に答えていた。
リリアノにとっては、恐らく僕が手中にあることこそが重要であり、
僕が何を目指しているのかは、それほど重要な事柄では無かったのだろう。
元より王候補として育てられたヴァイルが居る限り、
そこを覆してまで玉座に興味を示すことが得策なのかを判じかねてもいた。
しかしそれはそれで、貴族達に一つの光明を見せていたらしい。

「お前さんは身の程を知って、玉座に色気は見せてないからねえ。
扱いやすい相手と思われてるんじゃない、貴族的には」

商品を吟味しながら、トッズと些細なやり取りを交わす。
何度か御前試合や舞踏会の公的な催しにも顔を出す機会を増やしていた僕にも
それは何となく感じる所があった。
年頃の息子が居る貴族はそれとなくダンスや歓談に寄越し、
年が離れた貴族達は、僕への同情を隠そうともせずに近寄る。

「せっかく印を持って生まれてきたんだ、玉座取りに挑戦してみてもいいんじゃないかと俺は思うがね。
ま、俺の勝手な感想なんかどうでもいっか。
お前さんはとりあえずその気がない、それも賢い身の処し方だわな」

トッズから僕の手に小さな木彫りの人形が乗せられた。
鳥をモチーフにした人形はやすりで丁寧に削られたようで、手の平に柔らかく馴染む。
手の平に鳥を抱く僕を見て、トッズがわずかに口角を上げた。

「それとも何?それは見せかけの姿?大人しいふりして、他に何か思惑があるとか?」

トッズが僕の口元に耳を近付ける。
こっそり教えろと言うことらしい。
僕は首を振って、寄せられたトッズの顔を押しのけた。

「トッズは僕を買いかぶり過ぎてる。何か思惑がある訳じゃない。
……僕は、ただ穏やかに暮らしたいだけだ」

僕の答えは、トッズにとって期待外れのものかも知れない。
トッズの視線は、未だ僕を計るように僕の顔から離れずにいた。

ここでの穏やかな暮らしと言うのが、村での暮らしとは根本的に違うと言うのは分かっていた。
ただ波風を立てずに静かに居れば良いというものでも無かった。
波風を抑えつけられる程度の力と、情報が必要だった。
僕は顔を上げてトッズの顔を見る。
その為に、彼が必要だった。

「……ふーん、そっか。
それでいて俺との取引を了承したのは、災いを避けるための情報が欲しいってところね。
了解、了解」

トッズは片手をひらひらと振ってみせた。
それに相応しいものを優先的に報せましょう、といつも通りの軽い口調で笑う。

「ん、あれ」

一通りの情報のやり取りを終えた後で、トッズが回廊を指差す。
指差した方向を見ると、サニャがあちらこちらを見回していた。
探しているとすれば、僕のことだろう。

「あの子、レハトのお付きの子じゃないっけ」

僕は頷いて立ち上がる。
ローニカが探しに寄越すと言うことは、何かの行事をすっぽかしてしまっただろうか。
僕は居室に戻ることを伝え、手にあった鳥の人形をトッズへ差し出した。
トッズは差し出された鳥を見て一瞬ぽかんとしたものの、すぐに僕の手に握らせた。

「あー、良いよ。持ってったら。気に入ってるみたいだし」
「でも今日お金持ってきてないよ」
「まあ、出世払いでも何でも、期待してますから」

サニャが立ち上がった僕を見付けたようだ。
余り懇意にしている様子を見られる訳にもいかない。

「じゃあ、次の市で払うから、」
「欲しくないのを欲しそうにするのも交渉術だけどね、」

言いかけた僕の語尾に被せるように、トッズが言う。

「欲しいモンを欲しいって言えるのも、交渉術なのよ」

トッズに背を押され、僕はそのまま市場を後にした。

「レハト様、申し訳ございませんです、市場をお楽しみのところ……」

サニャが僕に向かい合って深々と頭を下げる。
僕は首を振り、何かあったのかと尋ねると、再び早口で告げた。

「あ、あの、今月の舞踏会で今年最後だって、サニャうっかり忘れてて、」
「ああ、衣裳合わせ?」
「そうでございます!衣裳係さんがお部屋に来てるんでございます」

衣裳係に押されるようにして僕を探しに来る羽目になっていたらしい。
何度も頭を下げるサニャを宥め、居室までの回廊を急ぐ。
ふと、サニャが僕の手にある鳥に気付いた。

「レハト様、お買いになったんですか?」

サニャに持っていた鳥を渡すと、撫でるように両手で包み込んだ。

「サニャ、これ知ってます。白の鳥って言うんです」

僕が首を傾げると、サニャは持っていた鳥を斜めにして僕に見せた。
小さな鳥は卵を抱いていた。
なめらかな卵は緩やかな木目をうつしている。

「確か鳥によって意味を持ってるんでございますよ。んーと……」

鳥をひっくり返しながら呟くサニャの言葉は、待ちきれずに迎えに来ていた衣裳係の声に遮られた。


眼前に広げられる舞踏会は、艶やかな衣裳に包まれた貴族達が溢れ
天蓋から吊るされた豪奢な照明が複雑な色模様の影を落とした。
アーチ状の高い天井は、楽隊の奏でる音楽と人々の笑い声をさらに響かせた。

僕は杯を片手に、目の前の相手との歓談に集中する。
着ている衣裳の話から始まり、やれ最近の天気はどうだ、流行の本はどれだ、
今更交わす必要も無いような内容を幾人とも繰り返す。

褒められたならば相手にも同じような賛辞を、笑い話にはささやかな冗談を。
褒め言葉を真に受ける前に、己の育ちを含めて謙遜してみせなければならない。
だからと言って必要以上にへりくだるのは逆に心証を損ねた。
相手の衣裳、振る舞い、表情、それらから僕は匙加減を見る。
彼らとのやり取りは、決して対等なものにはなり得ない。
会話は、互いの上下関係を探る為にあった。

途切れた歓談の合間に、僕はトッズとのやり取りを思い出していた。
美辞に満ちたものとは到底言えない。
修辞を読み上げたあの教師に聞かれれば、眉をひそめられる程にあけすけな話をしたこともあった。
けれど、彼との会話は常に対等だった。
与え、与えられる情報に量の差こそあれ、上下を決めるものは無かった。

目の前から、頭上から降り注ぐ音は、僕の足元すら危うくさせた。
靴を鳴らす音。
いやに響く弦の音。
手拍子。

視界が揺れ、目を細める。
くるくると踊る彼らの影は伸びては縮み、やがて聞き慣れた収獲唄が響いた。

はじめの一房は、アネキウス様に。
次の一房は、王様に。

口承されてきた古い歌を歌いながら、人々は麦を刈る。
波打つような麦畑の中、高く低く歌声は響き、笑い声が混じる。

そして、最後の一房は次の子ども達へ。

渡された麦は、白い花をつけていた。


目を開ければ、そこは僕の寝室だった。
薄布を張った窓から緩く日が漏れ、時折水鳥の鳴く声が混じる。
僕は横たわったまま額に手を置いて溜息を吐いた。
舞踏会が終わった後の週は、大抵いつもこうだ。

「もう少し早めに、お連れすれば良かったですね」

傍らで僕の額に布を置きながらローニカが言う。
僕はひやりとする布の感覚に目を閉じた。

「……最後の舞踏会を、途中で抜けるのもね」
「倒れられては元も子もございませんよ」

ローニカは苦笑いを浮かべながら僕の手首を取った。
ごつごつとした指が僕の脈を計り、ゆっくりと寝台の上へ戻される。

「ずいぶん落ち着かれたようですが、本日は休養なさる方が良いでしょうね。
私めは隣へ控えておりますので、何かありましたら直ぐにお呼び下さい」

僕が頷くのを確認し、ローニカは静かに退室した。

出した熱はとうに引いている筈なのに、何処かまだ頭に霞がかかるようだった。
耳にはまだ収獲唄の名残がある。
そう言えば、ちょうど収獲はこの時期だっただろうか。
黄金の月に実る黄金の麦を刈るのは、翌年に成人を迎える子ども達の最後の仕事だ。
この額の痣が本当にただの痣であったなら、今頃麦を刈るのは僕だった。
同い年の子ども達に混じり、翌年に迎える成人の儀に思いを馳せながら。

成人の儀。
いつかローニカから話を聞いた事があった。
その時はまだ遠い話を聞いているようだったのに、もう一月も残されていない。
僕はどちらを選ぶべきなのだろう。

これからも、そしてずっと、僕に印は付いてまわる。
玉座から目を背けようが、いかな才覚を身に付けようが、印持ちというただそれだけで。
早く決めなければならない、それは分かっている。
分かってはいても。

再び目を覚ました頃には既に差し込む日は無く、代わりに穏やかな灯りが部屋に灯されていた。
僕が体を起こした音がしたのか、控えめに寝室の扉が叩かれ、サニャが顔を出した。

「ご容態はいかがでございますか?」

ずいぶん楽になった旨を伝えると、幾分ホッとしたような表情を浮かべた。

「あの……これを届けてほしいって、頼まれて」

サニャが後ろ手に持っていたものを差し出す。
それは、細いリボンがつけられた一輪の白い花だった。

「中庭の茂みからいきなり突き出されて。
どなたでございますかって聞いたら、名乗るほどの者ではないさって返されちゃったんですけども、
心当たりありますですか?
見たところ変な仕掛けとかはなさそうですけど……」

確かに何か仕掛けがあるようにも見えない。
捨ててしまうのも何なので、サニャから花を受け取る。
サニャはそのまま隣室に控えている事を告げると、ぺこりと頭を下げていった。

受け取った花を眺めていると、リボンに何か文字が書かれていることに気付く。
まじまじと見なければ気付けない程度の文字だ。

『早く元気になってね。貴方を一番愛してる者より』

盛大に噴出した。
裏にはご丁寧に、見えにくい色のインクで贈り主の名が書かれている。
そんなもの散々書面のやり取りをした僕なら、文字を見るだけで分かると言うのに。
あのヒゲ面が、どの面を下げてこんなに愛らしいリボンに小さな文字を書き連ねたのだろう。
想像をするだけで笑いがこみ上げる。

隣室まで笑い声が届かないように、僕は花を抱きかかえるようにして腹を抑えた。
鼻先に触れる花弁からは懐かしい匂いがした。
貴族達の付ける香水とは違う。
僕がこれまで生きていた場所で、ずっと親しんでいた匂いだった。
腹の痛みで滲んでいた涙が、瞬きと共に零れた。

帰りたい。

あの場所へ帰りたい。

もう帰ることは叶わないと、とうに諦めていた筈だった。
ならば此処で生きていくしかないのだと、そう思っていた。
貴族達の好奇の目に晒され、所詮は田舎者と侍従達に哂われ、
足りない知識をめいっぱい詰め込んで、慣れない礼法に震える手を抑え、
人々の思惑を読むことだけに腐心してきた。

誰の望みを、思惑を、叶えようとしてきたのだろう。

零れた涙は花弁の上に丸く留まり、僕の膝で弾ける。


王城の中庭は少し外れてしまえば直ぐに迷路のような様相になる。
かつての戦役の名残を残すように打ち捨てられた建物は既に壁だけとなり、蔓草が這う。
触れれば土が崩れ落ちる壁を撫ぜるうち、草を踏む音に振り返った。
トッズは僕の姿を認め、市で会った時のように手を上げて近寄ってきた。

「どうしたの、レハト。こんなとこ呼び出しちゃって、怪しいなあ。
思わず全部すっぽかして駆けつけて来ちゃったよ。
で、何?何?意地悪しないで早く教えてよ」

トッズは足にまとわりついた草を払い、僕に向かい合う。
表情が、明らかに何かを期待している。

「あの、花、ありがとう」

小さく呟くと、トッズが首を傾げた。
しばし思い巡らせた後で、僕に贈った花を思い出したらしい。

「あ、あーあー。いえいえ。気に入ってくれた?」

頷くものの、沈黙が流れる。
それは互いに腹を探り合う舞踏会の歓談を思い出させた。
風が葉を揺らし、僕とトッズの足元に落ちた影が流れる。
降り積もるような沈黙を破ったのはトッズだった。

「……ええと、それだけ?」

取引には、与えるものと与えられるものが必要で、

「うーん、期待しちゃった俺が馬鹿だったのかなー、なんて」

僕が欲しいものの対価として、与えられるものなんて一つしか思い浮かばなかった。

「お花は気に入って貰えたみたいで何より。
しかしまあ、トッズさん、こう見えて色々忙しいんでね」

そう言いながら踵を返した彼の後姿に、僕は伝える。
僕の口からは、これまで散々貴族達との会話で繰り返した美辞が溢れた。
僕を振り返るその目に、わずかに驚きの色が揺れる。
しかしそれはただの一瞬だった。

「ほんと?俺もレハトのこと、好きよ。大好き。愛してる」

まるで予定調和のように、彼の口から言葉が紡がれる。
口の端を上げた表情は、ともすれば笑顔のようで、俯いた僕の姿は、きっと恥じらっているように見えるのだろう。
誰かがこの様子を見ていたならば。

「……逃げよっか」

やがて彼が告げた一言は、取引の成立を表していた。


荷台の隙間に体を滑り込ませ、僕は息を潜める。
呼吸のわずかな振動にも荷物が音を立て、僕は一層注意深く体を折り曲げた。
頭上から衛士とトッズのやり取りが聞こえる。
荷物に掛けられていた布が捲くられ、僕の足元の少し先に光が漏れる。
布はすぐに掛けなおされ、僕はかすかに息を吐いた。

石畳を過ぎる振動が体を揺らす。
こんなにも、この橋は長かっただろうか。
ああ、そうだ、長かったのだ。
城門から見ていたこの橋は、いつだって一点の歪みもなく真っ直ぐに続いていた。
そしてその先だけが、僕には見えなかった。

何度か角を曲がった辺りで荷台は止まった。

「よし、抜けた!レハト、もう顔を出しても大丈夫だぞ」

トッズの声に、僕は掛けられていた布を退ける。
眩しさに目を閉じる間もなく、僕の体は持ち上げられ、すとんと地面に降ろされた。
ずっと折り曲げていた膝に力が入らず、よろけた僕をトッズが難なく受け止める。

「さーてと、二人の新世界へ出発だ。
……と、その前に」

トッズが僕の頭に手を置いたまま呟く。

「悪いけど、どうしてもレハトに会いたいって人がいて……頼まれてるんだ。
ちょっとそこに寄るね。
でも、もし……」

言いかけたトッズの言葉は、鐘の音に遮られる。
昼時を告げる穏やかな鐘の音は尾を引いて消えた。

井戸の周りには恰幅の良い婦人たちが手に洗濯物を持ち笑いあっている。
家と家の間には細長いテーブルが置かれ、男たちが杯を片手に一つの盤を囲んでいた。
そこかしこから子どもを呼ぶ声が聞こえる。
後ろからぶつかった子どもは、僕を見上げると弾むように走って行った。
その先で、まだ年若い母親らしき女性が僕に急いで頭を下げた。
勢い良く抱きついた子どもの頭を撫で、手をつなぐ。

空は、これ以上ないほどに晴れ渡っていた。
風は温く僕の頬を過ぎていった。
家々から立ち上る細い煙に、香ばしいパンを焼いた匂いが混じる。
僕が暮らしてきた風景が、今目の前にあった。
風景が、滲んで歪む。

歪んだ町並みの向こうでは、まるで唯一神のような王城が逆光を帯びて黒く浮かび上がる。
きっと、僕が遠のけるのは、ここまでだ。

「何、大したことはないよ。すぐ終わるから」

トッズの言葉に、僕は頷く。
彼から受け取ったものの対価を、返さなければならない。


もう荷台に揺られる必要は無いらしく、僕とトッズは連れ立って歩く。
大通りから細い路地裏を抜け、次第に石造りの家が目立つ界隈になる。
そしてトッズが立ち止まったのは、ほとんど街の外れと言って良い場所だった。

強固な門や、門越しに見える充分に手入れの行き届いた庭が持ち主の権勢を窺わせる。
門扉の前でトッズが名乗ると、重たそうな門はあっさりと開き、僕らは中へと導かれた。
高い天井に足音が響く。
侍従と思われる青年に導かれた部屋へ入ると、トッズは入り口横の壁にもたれ、待機の姿勢を取った。

部屋の中央には、一人の中年の男が座っていた。
恐らく、彼がトッズの雇い主なのだろう。
僕が言葉を発する前に、男が口を開く。

「……お前がレハトか。確かに面影がある。
私が誰か分かるかね?」

男は、僕の額の辺りを凝視している。
椅子を勧められもしない様子からして、客人として迎え入れられたのでは無さそうだった。
そもそも僕の様子すら、殆ど気になどかけていないのだろう。

「……分からぬか。それも仕方がないことだ」

名乗られたメーレという名は、舞踏会で雑談を交わした貴族の口の端に上がったことがあった。
しかし舞踏会で顔をあわせたことは一度たりとも無かった。
少なくとも、目の前の男とは。

「そうか。お前の母は本当に何も話さなかったのだな」

母の話を出され、僕の体が揺れた。
僕の反応を目ざとく察した男は、わずかに身を乗り出した。
ようやく、僕と男の視線がまともに合う。
わざとらしい笑みは、王城で見飽きるほどに見てきたものだった。

「やっとお前と会うことができた。私を父と呼んではくれまいか?」

肯定も否定もせずに黙っていると、男の顔にかすかに苛立ちの色が見えた。

「どうした。何故黙っているのだ。いや、分かる。すまなかった」

今度は勝手に謝りだした。

本当に僕の父であるのなら、正式に名乗りを上げて然るべきだ。
僕の存在は舞踏会を介して貴族達には充分に知られていた。
フィアカントに居を構える貴族が、知らない訳が無いのだ。
僕の父であるか否かを決めるのは僕ではなく、リリアノだと言うことを。

「我が息子、レハトよ。私を信じてくれるね?」

男の声音は低い。
僕は笑って首を振った。

「いいえ、信じない」

僕の言葉に男は俯く。
そして上げられた顔からは、先ほどまでの笑みは消え失せていた。

「そうか……、ならば仕方がないな。
いい加減、猿芝居も疲れた。私は役者にはなれんな」

男はゆっくりと立ち上がり、後ろの仕切り幕へ声を掛けた。

「子ども一人を言いなりにする方法など、いくらでもあるのだ。
死ななければ、多少の怪我は構わん。捕らえろ」

多少の怪我などと悠長な事を言っているから、お前は小物で終わるんだ。
言いかけて僕は笑いと共に堪えた。
はじめてリリアノと対峙した時の恐怖を未だ僕は覚えている。
あれは、初めて感じた明確な殺意だった。

仕切り幕から屈強な男たちが手に獲物を持ちばらばらと現れる。

僕は目を閉じ、先ほどまで居た街の風景を思い出す。
穏やかな人々の顔と、そして抜けるような、青空。

別れは、告げてきた。


突然、体が持ち上げられたかと思うと、目の前が真っ暗になった。
何事かと思う間もなく、僕の体は揺すぶられ、怒声と鋭い金属音が耳を突く。
そして金属音は次第に遠くなり、代わりに誰かの荒い呼吸がはっきりと聞こえた。

もがく僕の体が手荒に降ろされた。
周囲は館ではなく、高い石壁が連なる路地だった。

「……あああああああー、もう!」

息切れから続くように大声を張り上げていたのは、トッズだった。
片手に持つ剣には、血がいくつもの筋をつけている。

「あー。駄目な俺!ほんっと駄目な俺!
密偵が雇い主裏切ってどうするよ、おい!」

何が何だか分からないまま、僕はトッズを見上げるしかなかった。
僕が口を挟む余裕すらないほどの勢いでトッズが捲くし立てる。
剣を持たない片方の手でがしがしと頭をかいている彼の姿は、市場では見たことが無かった。
まだトッズの勢いは治まりそうに無い。
袖を引っ張ると、今度は僕の頭がかき混ぜられた。

「……だけどまさか、たらしこまれてたの俺の方だなんてなあ。
あーもう畜生、こんな色気もへったくれもないガキに!
あ、悪い悪い。お前に問題はない。そんなつもりもなかったろうさ。
問題なのは俺です。俺のオツムです。
可哀相な俺のオツムと将来に乾杯」

僕の頭から退いた手が、空に向けられる。
複数の走る足音が近づいてくる。
トッズは深い溜息を吐いて僕を見ると、城に戻すと言い放つ。
僕が一言も発する間もなく、再び剣戟の音が響いた。

僕の息も切れ出した頃、ようやく城下と言えるような位置まで戻ってきた。
乾いた笑いに振向き、僕は息をのんだ。
トッズの上腕とふくらはぎに、いまだ折れもせずに矢が刺さっていた。
布では吸いきれない血が点々と走ってきた道に散っている。
僕の視線に気付いたトッズが刺さっていた矢を抜き、放り捨てる。
服についた虫を払うかのような軽々しさで。

「あー、やっぱり殺しにかかってきたよ。レハト、怪我はないな、よし」

トッズは僕の身体を叩くと、大きな道へ向かい合わせる。

「じゃ、走れ。もうちょっと行けば、人通りの多い場所だ。
俺がここで足止めするから」

僕の足元に、トッズの腕から落ちた血がいくつもの斑点を作る。
上腕から流れ落ちる血の量を見れば、まともに振ることも難しい筈だった。
しかしトッズの持つ剣を奪おうとする僕の手はあっさりと止められた。

「あのなあ。お前が留まって戦ってどうするってんだよ。
これは試合じゃねーんだぞ。飛び道具相手に剣振るうのは馬鹿だ」

その馬鹿なことを仕出かしているのは誰だと言うのだ。

「行け。行けってば」

背を押す力に抗って、僕は首を振る。

トッズの雇い主に顔を見せたのは、それが僕の持ち得る最後の取引材料だと思ったからだ。
余計な火種を撒くつもりは端から無かった。
終わらせるつもりで、ここまでついてきたのだ。
まさかトッズがあの場所で剣を抜くとは思わなかった。
そして僕を担いで逃げるとも。

今ならまだ間に合う。
僕を置いて去れば、トッズがこれ以上追われることはないだろう。
僕ならもう良い。

けれど剣を持つトッズの力は緩まなかった。
剣を間に挟んで無言の押し問答を続けるうち、一度は遠ざかった足音が近付く。

「ほら見ろ。ぐずぐずしてっから、追い付かれたぞ、馬鹿」

目の端に光るものが過ぎった瞬間、トッズの体が揺れ、彼の肩口に矢が突き刺さる。
射た相手はすぐに見つけられた。
悠々と背から矢を抜き、再び弓を引き絞る。
狙いは、僕の額だった。


玉座の間には座したリリアノの他、護衛にあたる衛士の姿も無かった。
ローニカに後ろ手に拘束されたトッズが、リリアノの前に跪くような形で引き出される。
僕はトッズにもリリアノにも近付くことが許されないまま、下がった場所から眺めていた。

リリアノを前にしても、トッズは変わらない口調でやり取りを続ける。
けれどいつものような軽口とは違っていた。
状況だけを考えるなら、彼は僕を謀反者へ引き渡した張本人で、
そして僕は彼に騙された子どもでしかなかった。

「申し開きがあるなら聞くぞ。命乞いもな」
「…………。
………まあ、いいです。どうせ無駄でしょ?」
「そうだな」

トッズは、自らの起こしたことを何一つ弁解しなかった。
彼との取引を望んだのは僕で、最後の我侭を通したのも僕で、
そしてそれらを含めた口上を上げるべきなのは今しかない筈なのに僕の口からは声すら出てこない。

「……あー。一つだけ。無理と思うけど」
「何だ」

やり取りの途中で、トッズの視線がこちらに向けられた。

「ちょっと話させて」

リリアノはしばし考えた後、僕に目配せをした。

駆け寄ると、トッズは僕にわずかに身体を向ける。
後ろ手に縄をかけられ、射られた辺りには形だけのように布が巻かれている。

「よ、レハト。怒ってるよな。……うん、まあ、そうだよな。
これから気をつけろよ。悪い奴ほど、良い顔してくるから」

布にはまだ真新しい血が滲んでいた。
触れることも出来ないまま、僕は自分の手を握り締める。

「ま、良くあることだ。気にすんな。じゃ、そういうことで」

小さく笑うとトッズは立ち上がり、あっさりと背中を向けた。
あれほど頭に詰め込んだはずの修辞は、何も出てこない。
言うべきことも、振舞うべき行動も、何も、何も。

僕は向けられた背中に飛びついていた。

「え」

驚いた声をあげたのはトッズだった。

「うわっ、ちょっと、おい!重いって、何だよお前、ぶら下がるな!」

離せと身体を揺する彼の背中に、ただ必死にしがみつく。
トッズを此処から出してしまったらもう二度と会うことは叶わない。
僕の考えたことを、僕の起こしたことを、何も無かったことにして彼だけに背負わせていくなんて、それは出来ない。

僕は彼にしがみついたまま、リリアノの顔を見る。
射るような眼差しだったリリアノの視線がふと和らいだように見えたのは一瞬で、リリアノはローニカに顔を向けた。

「……なあ、ローニカよ。先ほど、あの男が何やら気になることを言っていたな」
「今後のこと、でございますか」
「おお、そうとも。言われてみれば、これから同じようなことが、何度も起こるやもしれんな。
なあ、ローニカ?」

リリアノは、どこか楽しそうにも見える。
反して、ローニカの顔はみるみる渋くなっていった。

リリアノが僕に改めて顔を向けた。

「ということでだ、レハト。お主の意見を聞かせてはもらえないかな?」

唐突に求められた意見に、咽喉が絞まるような感覚がした。
何を言えば良い。
トッズを助けて、これからは己の行動も自重をするから、
弁解か、ただの言い訳か、命乞いか、様々な言葉だけが僕の頭を巡る。
リリアノを納得させられるような条件なんて、もう何も持ち合わせていない。

僕は、本当に、何も持っていないただの子どもで、
だからこそ利用出来るものは全て利用しなければならなかった。
いつだって物事は、要るものと要らないものに分かれていた。
僕を、僕と母を、守ってくれる人なんて居なかった。
強請っても良いと笑ってくれる人なんて居なかった。

『欲しいモンを欲しいって言えるのも、交渉術なのよ』

だけど、もしも。
もし、願っても良いのであれば。

「僕に、」

出た声は掠れていた。
しゃくりあげる音を出したのは、僕の咽喉だ。

「僕に、トッズを、ください」

リリアノの目元が、かすかにほころぶ。
やがてゆったりと立ち上がったリリアノが告げたのは、トッズを僕の護衛へ任ずる口上だった。


布を頭に撒く所作も堂に入ってきたと思う。
はじめこそ手伝ってくれていたサニャも、鏡石の向こうで満足気に頷く。
何度か感触を確かめ、簡単には取れないことを確認し、僕は部屋を出た。

あの一件の後、さすがに全くのお咎めなしとはいかなかったが、
それでも僕がリリアノとローニカに叱られる位で済んだのだから処罰と言えるものではなかっただろう。
もしかしたら僕は、本当はあの場所で死んでいるのではないだろうか。
肩透かしとも言えるほどあっさりと手中に戻ってきた城内での日常は、僕にそう思わせるには充分なほど穏やかに過ぎていた。

黒の月も半ばを過ぎ、来年は譲位の関係で市場は行なわれないと聞く。
貴族達との目に止まろうと、商人達の声にも力が入っていた。
広げられた天幕の隙間を通り抜けるうち、見慣れた天幕が目に入る。
トッズは僕の姿を認め、いつも通り片手を上げた。

「お店、出せたの?」

僕は駆け寄り、まるで何事も無かったかのような顔で座るトッズに問う。
トッズは顎のあたりを撫でながら頷いた。

「出せたって言うか、まあ、出さない方が不自然だから出してろって言うか」

確かに律儀に毎回店を出していた商人がこの時期に突然居なくなる方が不自然だろうか。
僕はトッズの店の前にしゃがみ込む。

「お前さん、市好きみたいだしな。なら、自然に護れるだろ」

市、好きだっただろうか。
よく覗きに来ていたのは、気晴らしという意味も無くは無かったけれど
それ以上に城内と城外を出入りする人の流れが気になっていたからだ。
城内では何が好まれて、何は興味を示されないかを知る為だけに居たのかも知れない。
トッズの言葉に、僕は少しだけ苦笑いを浮かべた。

「さ、何かお気に召したものはありますか。色々ご用意してございますよ」

品揃えは、相変わらず何やらよく分からないもので溢れていた。
まだ売れ残っていたのかと思うものもちらほら混じっている。
品物を見回すうちに、光を反射してちらちらと瞬くものが目の端に入る。
何かと思ってみれば小さな耳飾だった。
淡く赤い色の石が嵌め込まれた銀細工だ。
僕の目線に気付いたトッズが耳飾を手にする。

「あれ、ちょっと意外。こういうの好きだった?」

トッズは傍らに置いてあった厚手の布で耳飾を磨くと、僕を手招いた。

「つけたげる、おいで」

呼ばれるままに品物の置かれた場所を回りこんでトッズの脇まで足を運ぶと、
トッズは自分の膝をぽんぽんと叩いた。

「なーんてなー、こんなん見られちゃったらあの爺に、うわっ」

座ってはいけなかったのだろうか。
何の躊躇もなく膝の上に座った僕に驚いた声を上げ、耳飾を持ったままの手が宙を泳いだ。
耳飾と僕を交互に見ていたトッズの目が、あらぬ方向を見てぎくりと止まった。
と思いきや、すごい勢いで首を振っている。
トッズの見やる方向へ僕も目を向けてみたけれど、何の変わりも無い人垣しかなかった。

「……ええと……、じゃ、失礼して」

ぎくしゃくとした手付きで、僕の耳にかかった髪を上げる。
なぜか額に滲ませた汗が気になるものの、僕はそのまま目を閉じた。
ひやりとした感触がして、耳朶に重みが加わる。
両耳に耳飾がつけられ、慣れない感触が少しこそばゆい。

思わず頬を緩めると、僕の耳の付け根の辺りに何か温かいものが触れた。


暦が白の月を示し、穏やかに過ぎた日々が終わりを告げる。
この廊下をローニカと連れ立って歩くのは、きっとこれが最後になるだろう。
身にまとうのは薄布を幾つも重ねた祭事用の衣裳。
これから向かう神殿で、僕の成人の儀が執り行われる。

「お待ちしておりました」

神官が恭しく頭を下げる。
神殿の入り口でローニカは、迎えに出た神官へ僕を引き渡す。
そしてまた彼も、僕へ深く頭を下げた。
神殿の奥へと続く回廊へ足を踏み入れ、僕は振り返る。
口中で呟いた声は彼に届いただろうか。

子どもとして過ごす最後の日、僕はトッズと約束を交わした。
命を助けられた、それはお互いのことだった。
出奔を手引きし謀反者へ引き渡した張本人と、その罪人を庇った寵愛者。
あの場で処刑されたとして、何らおかしいことは無かった。
本来ならば、それだけで満足すべきだったのだろう。
けれど助けられた命は、貪欲に次の欲望を示していた。

もう一度、ここから逃げよう。
細かく震えていたのは、僕の身体だっただろうか。
それとも、彼の腕だっただろうか。
トッズにかき抱かれた腕の中で、僕は再び頷いた。
それは終わりにするためではなく、始まりにするための約束だった。

僕は眼前にある神殿の回廊に、昨日頭に叩き込んだ見取り図を重ねる。
礼拝に使われる祭壇を中央奥に携えた講堂、奥に続く扉は開け放たれ、数人の神官が僕の姿を認めて目礼をした。
元々王城からは離れた一角に建てられた神殿は、その性質上、湖に面した部分を有する。
いくつかある露台のうち、最も適した場所までの道のりを思い出す。

礼拝堂の扉の前に着いた瞬間、僕は走り出した。

走り出した僕を追いかけようとする神官の声は、すぐに遠のいた。
細く続く薄暗い廊下を走りぬけ、脇の扉を手荒く開ける。
突然の闖入者に驚いた顔をした神官達の間を擦り抜け、正面に続く扉へ。
覚えた道順通りに駆け、印となる角を見つける。
角を曲がると、僕の眼前に湖に突き出した露台が広がった。

扇状に婉曲した露台の手すりを見渡し、端の方に目印を見付ける。
炭で書かれた印を指で擦り落とし、切れた息を整えた。
ここから先は神官たちに見られなければならない。

やがて神殿衛士を伴った神官たちが追いつき、僕の姿を認めて絶句をした。
僕は手すりの上に立ち、彼らを見渡す。

「全てが嫌になったのです」

僕の声は朗々と響いた。

「神の国へ召し上げられる日を待ち望んでいました。
けれど、それは余りにも遠い」

彼らの顔がみるみるうちに蒼白になっていく。
落ち着いてくれと懇願する彼らの声は上擦り、あまりの動揺ぶりが痛々しい。
僕はちらりと背後の湖へ目線を落とす。
穏やかな湖面はこの高さでは波すら見えず、一枚布のような静けさであった。
神官たちが口々に説得の言葉を並べ立てながらじわりと近付く。
これだけ見られれば、もう充分だろう。
動揺している彼らが僕の表情へ浮かぶ微かな笑みを判別できるとも思えなかった。

僕は手すりを蹴り、湖面へ身を投げ出した。


衝撃と共に冷たさが全身を走る。
一瞬上下を見誤るかのような泡沫が視界に溢れたと思うまでも無く強い力で腕を引かれた。
彼は僕の腕を引き、少し離れた岸へ引き上げる。
茂みの中で濡れた服を脱ぎ捨て、代わりの服へ手早く着替える。

「よし、行くぞ」

城の裏出をまわり正門の近くまで辿り着くと、トッズは僕へ木の札を渡した。
番号が刷られたそれは、入城証だった。
舟を手配するには時間が掛かり過ぎ、それに僕が自殺を企てるにはあの湖が手っ取り早かった。
まともに湖上を渡る以外の方法で城から出ようとするならば正門から橋を渡るしかない。
僕はトッズから木札を受け取り、帽子を深く被りなおす。

「二人一緒には行けない。一人ずつだ」

茂みから見える正門まではまだ騒ぎは届いていないらしい。
王城と少なからず確執を抱えた神殿のことだ。
今頃は神殿衛士たちが躍起になって湖を攫っていることだろう。

「それを渡して堂々と渡りな。変な素振りは見せるなよ。
橋を渡ったら、そのまままっすぐ進めば、そのうち中央市場にぶつかる。
そこで待ってるから。分かった?」

僕は城下の様子を思い出しながら頷く。
人通りの多い市であれば、紛れるには充分だろう。

「途中で変な奴に声掛けられても絶対ついていかないでよ。
あーもう、それが心配だなあ。レハトは可愛いから心配だなあ」

ん、ん?
とりあえず頷いておく。首を振るべきなのか?

「じゃ、先に行くから。数人挟んだらレハトもおいで。
十分用心して、でもおどおどするのは適度にな。堂々としすぎるのも変だぞ。
俺がもし門で見咎められて捕まったら、レハトは服を隠した場所まで戻りな」

踵を返しかけたトッズが再び僕の前に詰め寄り、頭をごしごしとこする。
帽子が外れそうで僕は慌てて頭を抑えた。

「本当、出る時もそうだけど、出た後はいっそう気をつけるんだぞ。
世の中にはレハトが思いも寄らないくらい悪い奴がいっぱい」

いい加減足を踏みつけた。
時間が無いことくらい彼も十二分に承知しているはずだ。
僕の身体が見付からないとなれば、真っ先にこの状況を察するのはローニカだろう。
たとえ衛士はどうにか遣り過ごせたとして、あの優れた侍従を遣り過ごすのは無理だ。
早く行けと手を振ると、腕ごとすっぽりと彼の腕の中に納まってしまった。
しかし納まった時間はごく僅かで、トッズは僕の頬を撫でると正門へ足を向けた。

茂みの中で耳を澄ませるものの、正門から騒ぎが起こった気配は無い。
トッズが戻ってくる様子も無かった。うまく行ったのだろう。
僕は数人が正門へ向かう様子を確認し、その最後尾へ付いた。


門衛に促されるまま、入城証を渡し教えられていた名を告げる。
衛士はそのまま入城証を受け取り、僕の後ろに居る人物へ目を向けた。
僕は軽く頭を下げて、橋を渡る。

橋上には荷を引く出入りと思われる商人、謁見を終えたであろう貴族の鹿車が一様に城下町へ向かっていた。
はじめて自分の足で踏みしめた石畳は固く、歩を進める度に薄い土ぼこりをあげる。
走ってはいけない。
歩みを止めてもいけない。
ごくありふれた様子で周囲の人々に紛れるように僕は歩き続ける。

中ほどまで進んだ辺りで衛士の声が聞こえ、僕は振り返りそうになる身体を押さえた。
澄ませた耳に聞こえた声は老いた男と衛士の声だった。
トッズの声ではないことに小さく息を吐き、残る橋を行く。

やがて城下の喧騒が耳に届き始める。
足元を見ていた顔を上げれば橋が終わるまでもう少しのところまで来ていた。
遠く、中央市場が見えた。

往来を行き交う人々の波に紛れて建物の影に入り、僕は顔を覆うように撒いていた布を降ろす。
気付けば額に汗がじっとりと滲み、膝が小刻みに震えていた。
立ち止まればもう立てそうにない気がして、僕は足を速める。
中央市場へ向かうに従って行き交う人の量が増える。
誰も僕になど気を留めていない、そう願いたい。
急ぎ足がやがて駆け足になった頃、上げられた声と共に腕が掴まれた。
驚き振り払おうとして見上げると、トッズが目を見張って僕を見下ろしていた。

「ちょい待ち、レハト。
出られて浮かれてるのは分かるけど、俺を置いていかないでよ。
冷たいなあ」

トッズはからかい混じりの声で僕の肩を抱く。
上から大きな布が被せられ街の門へ足を向けた時、トッズがびくりと背後を振り返った。
目線がしばらく雑踏を泳ぎ、やがて歯切れの悪い呟きを漏らした。

「いや……、気のせいかな……」

トッズの目線を追うように、広場の市へ目を向ける。
様々な衣服に身を包んだ人々の中に、僕は見慣れた影を見たような気がした。
彼は。
そう、確かに彼は、僕へ頭を下げた。
やがて人の波に飲まれ、再びその場所へ目をやった時には既に姿は無かった。

「とにかく、急ぐぞ。これからが勝負だからな」

トッズが僕の背を押した。
僕は頷き、共に歩き出す。
街の門へ向かって。
これから続くであろう、逃亡の日々へ。


木々の隙間から覗く草むらは、高く生い茂っている。
村で見たものでも、中庭で見たものでもない。
草は何の干渉も受けず、それでいてまるで手招くように風に揺れた。
始まりの森。
書物で読んだきりのこの場所に、言われるほどの禍々しさを感じないのは私が一人で居るからでは無いのだろう。

「レハトー」

不意に背中から抱きつかれた。
彼は私の肩越しに、揺れる草を見つめる。

「何見てたの?南の景色?」

私は頷き、荒涼と言うには力強さに満ちた草原の先を指差す。

「大丈夫。まだあっちには逃げなくても平気だって。レハトは心配性だなあ」

彼は肩に顎を乗せたまま顔を揺らした。
その動作がこそばゆくて、私は笑いを漏らす。

私は懐に入れていた小さな木彫りの人形を取り出す。
年を重ねて少しくすんだ鳥は、変わらない柔らかさでもって私の手に納まる。

「あれ、それまだ持ってたんだ」
「白の鳥って言うの、知ってた?」
「へー、レハト物知りだなー、惚れ直しちゃうなー」
「私にくれたのは貴方じゃない」

彼は私の手から鳥を持ち、手の平で遊ばせる。
その鳥が抱く卵に刻まれた文字に気付いたのは、私が成人を終えてからだった。

ただひとつの自由を

草原はたださやさやと揺れては返し、まるで海原のようでもある。
あちら側は、もう私たちの住む世界では無いと聞く。
かつて私達はここから始まり、生きる場所を求めて北へ北へと向かった。
一人の王に率いられ、やがて辿り着いた砦をそこと定めた。

人々の生きる場所とは、一体何処を指すのだろう。
遠く、私が暮らしていたあの村は。
己の足元をすら見失っていたあの王城は。
そしてもう一度生きることを許されたあの路地裏は。

彼は私の身体に手を回し、力を込めた。
私は回された手を握り締める。
地図に描かれた場所がそうではない。

彼が求めてくれたこの身体が、私の生きる場所なのだ。

長々としたものにお付き合い頂きましてありがとうございました。